チュニジア
チュニジア(2)・・サハラ Dec 1999
 まずはトズールへ       やはりバスが一番
とりあえず行き先をトヅールに決め、バス・ステーションで長距離バスの出発を待つことにした。定刻前に乗車すると、まばらな車内に観光客は私一人で、他は皆チュニジアの人たちだ。さすがに、冬のラマダーン時期に観光する人はいないようだ。

定刻通り出発したバスは、走り出してから2時間もしないうちにレストランの前で止まってしまった。夕暮れが近いところをみると、どうやら食事の時間らしい。 
運転手を含め総勢9人の乗客は1人残らずレストランの中へ消えていった。私も後を追い中に入ると、満席状態のテーブルでは食事に没頭する人々、衝立で隔てた奥では熱心にお祈りを捧げる老人と妙な組み合わせを垣間見ることができた。いかにも信仰(戒律)は各人の意志にまかせるお国柄らしい。 

長距離バス満席で空いているテーブルがなく、テーブルの空くのを待っていると、2人連れの若者が声を掛けてくれた「こっちにこいよ」。
一緒にテーブルを囲んだ彼らはモロッコ人だと自己紹介してくれた。これからリビアまで行き、カザフスタンまで行く予定だと言う。日本では情報がほとんど皆無で、入国にもいろいろと制約があるリビアに気軽に行ける彼らムスリムがうらやましい限りだ。
それにしてもすさまじい食欲だ。なるほどラマダーンは本当のようだ。日中の飲食を禁じられているだけあって、日が暮れると一気に食いだめを始める。きっと、ダイエットに成功した人がその反動でリバウンドしてしまうのは、こんな感じなんだろう。
食事の時間が終わり走り出して1時間もしないうちに今度は突然、ガンガガンッガンガン!と大きな音が車内に響き渡った。驚いて車を降りてみると案の定パンクだ。驚くほど擦り切れたタイヤは、パターンがとうの昔になくなって今ではもうすっかりスリックタイヤ(溝が少しあるからレインタイヤかな)になっている。それも他全部がスリックタイヤだ。これじゃまたいつパンクするかわかったもんじゃない。 
タイヤ交換は乗客総出での作業だ。老人と女性は車内に残っているが、他は皆外に出て作業を手伝い始めた。私も知らん振りもできないので一緒に作業することにした。
さすがにバスに使うだけあって大きく重く、とうてい一人では持ち上げれないタイヤ。ジャッキアップするにしても、バスに使うとは思えないほど小さくか弱い工具。備え付けの懐中電灯はというと、蛍の明かりほどのおぼつかなさだ。こんな明かりでは、作業がはかどるはずもない。ふと、荷物の中に小型の懐中電灯があるのを思い出し、試しに点けてみると全然違う明るさだ。まるで、月の明かりと太陽の光りほども違う。 

間もなくパトカーがやって来て、作業の間交通整理をしてくれた。さすが本職だけあってすばやい対応だ。ここチュニジアでは、警察官の数がやけに多い。チュニス市内でもかなりの数を見たが幹線道路でも頻繁に目撃した。アフリカでも屈指の治安を誇り、経済面でも特に大きな不安材料のないこの国では、公費で賄う警察官にも困らないようだ・・。 
せっかく誉めているのに、もう飽きてしまったのか交通整理を止め、タバコを吹かしながら見物を決め込んでしまった。もう少し働いて欲しいものだ。 

タイヤ交換の作業がやっと終わりバス戻ろうとすると、手が汚れているのに気が付いた。当然皆も汚れていることだろう。風邪薬を飲むために買っておいたミネラルウォーターで自分の手を洗い、ついでに皆の手も洗うと、さっきまではどこかの東洋人だが、いつしか仲間になったような気分だ。同じトラブルを解決した仲間 
車内では、甘〜いお菓子をごちそうしてくれたり、鼻をすすっただけでティッシュをくれたりと、さっきまでとは違う。やっぱりバスが一番。 

 そしてドゥーズへ      乗合タクシーもいいぞ
トズールに着いたのは深夜になってしまった。当初の到着予定時間を過ぎてしまったのはパンクが原因のようだ。 
トヅールの建物ここでもホテルを探さなければならないのだが、やはりホテル探しは不安だ。一度でも訪れたことのある場所ならまだ良いのだが、全くの初めてで、ましてやは深夜ともなれば不安が募る。 
勘を頼りにバスターミナルから街に向かって歩いていくと、なにやらかホテルらしき建物を発見した。方向音痴の私としては上出来だ。ホテルの名前はHotel Aicha、やや古ぼけた部屋だが、中は広くゆったりとしていて落ち着く雰囲気だ。
ここでの朝食にはフランスパンとネスカフェ&ミルク。もともとフランスパンは好きじゃなかったのだが、ここのパンは絶品だ。パンを食べる目的でだけここに泊まっても良いと思わせる程のおいしさで、思わず食べ残してしまったパンを荷物にねじ込んでしまった。
チュニジアのほぼ真ん中に位置するトヅールは隣国アルジェリアとの国境も近く、内陸部としては珍しく大オアシスが広がっている。更にはフランスやベルギーからの直行便がある国際空港を抱えた交通の要所でもある。

次の目的地ドゥーズまではルアージュ(乗合タクシー)を乗り継ぎ移動することにした。 
ルアージュはバスよりは若干運賃が高いのだが、乗客さえ集まればいつでも出発し、バスの通らないところでは、庶民の足としてすっかり定着している。又、そのスピードたるや、運転手によってはジェットコースター並みの速さで走ることもある。 
途中、ショット・エル・ジェリドにさしかかると不思議な光景を目にすることが出来た。ショット・エル・ジェリドは塩の層に覆われた湖で、その大きさは実に最長200kで最大幅は80kにもなり、太陽の熱で干上がった姿は時に幻想的な色彩を放つとを聞いていた。ところがどうだろう、季節が冬で日差しが弱いせいなのだろうか、確かに干上がった部分も多いのだが、今は波並みと水を湛えている。湖というよりもむしろ海を思わせるほどたおやかな姿だった。

塩湖を過ぎ、途中ケビリでルアージュを乗り継ぎドゥーズまできたのは昼過ぎだった。昼といえばもちろん昼食なのだが、ラマダーンの街では当然開いているレストランなどあろうはずもない。 
ドゥーズはまさしく砂の街だ。サハラに最も近い街で、数キロも街を外れるとサハラの大砂丘を目の当たりにすることが出来るという。なるほど、乗合タクシーを降りただけでそのことが実感できる。アスファルトかコンクリ道路があるようなのだが、どこもかしこも砂に埋もれ全くと言っていいほど見えない。家々の前では中に砂が入らないように、雪かきならぬ砂かきをしていた。 
誰かの手記に書いてあったのを思い出した『砂漠は甘くていい香りがした』その通りだ。決して砂埃などではなく、ここドゥーズでも甘くなにかしら心地の良い香りがしてきた・・。 

どこへ行くともなく散策していると、自称ガイドと名乗る客引きに声を掛けられた。「サファリツアーに行かないか?」話を聞いてみるとこうだ。今から2時間後にここをタクシーで出発し、途中でラクダに乗り換えてサハラに行き、そこで一泊し翌朝にまた同じルートで帰ってくる。当然、翌朝にはタクシーで迎えに行く。それで値段は30D(約¥2500)だという。願ってもないことだ。はるばるサハラまで来てラクダに乗り、更にはその大地で一晩明かすなど夢のようだ。 
でも、疑問が残る。今は冬、ただでさえ夜のサハラは寒いと聞くのに、季節が冬ではさぞかし冷え込みだろう。「大丈夫、だいじょうぶ。それほど寒くない」もしかしたら案外暖かいのかな。値切るのも忘れ、サハラでの一泊の誘惑に乗り、ついついOKしてしまった。 

ツアーの時間までの間にまたも街を散策し始めると、今度は別の客引きが声を掛けてきた。「サファリツアーに行かないか?」内容は同じようだ。「もう別のガイドに頼んだから・・」それでも相手は納得しない「それはどこのツーリズムだ?きっとモグリで危ないぞ!俺のところは公認だから安全だ。ほら」と差し出された名刺を見ると・・なんか見たことがある。HOTEL EL HOUDOUと書かれた名刺って、さっき貰ったのと同じじゃないか!
ラクダに乗っている人街角に座り込んで暇そうないる老人に声を掛けてみた「サバーハルヒール(おはよう)」どこに行ってもその土地の言葉で話し掛けると誰しも嬉しいものらしい。老人も愛想を崩し「サバーハルヒール」。 
私は常々行く先々ではできる限りその土地の言葉を、より正確に話すようにしている(「こんにちは」と「ありがとう」くらいだが)日本でもそうだろう、「コンニーチワ」とカタカナで言われるよりも「こんにちは」と正確に話されたほうが親近感がわくのではないだろうか。
「どこから来たんだ?日本か?!」「そう、日本だよ」「ほお、やっぱりそうか」「それにしても腹が減ったね」「なんでまた?」「だって今ラマダーンだろ。俺だって日中は何も口にしていないんだ」「そうか!お前もラマダーンを守っているのか。そうかそうか、で、ちゃんと礼拝もやっているんだな」「いや、礼拝までは・・」「なんでやらないんだ?」どうやらこの老人は私がムスリムだと勘違いしてしまったようだ。郷に入っては郷に従うという、西洋人にはとても真似のできそうにない私の旅のスタイルは一瞬にして崩れてしまった・・。 

後ろから老人の嘆きが聞こえるような気がした「近頃の若いもんは・・」。それもそうだろう、近頃ではアラブの国ではますます西洋文化(帝国主義というらしい)が流入し、物理的にも精神的にもイスラム文化を固持するのが難しくなっていると聞く。そもそもイスラムの世界と西洋の世界では、生活基盤となる思想事体が異なるのだから、大きな矛盾が発生するのも無理がない。 
イスラム原理主義の台頭が近年穏やかならぬものがあるが、彼らはただ単にイスラムの精神世界と戒律をを頑なに守りたいだけなのだ。そこで生じる矛盾や障害 を排他したいだけなのだ。その考えにだけは賛成したい。但し、ごく一部がとるテロなどの過激な手段だけは絶対に賛成できないのだが・・。 

ふと気が付くと床屋を発見した。日本で散髪をすると結構な金額になるのだが、他ではそんなにしないだろう。中を覗くと店内は結構混んでいた。混んでいるだけあって腕は確かなんだろう。 
店内でゆっくりと順番を待っていると、後から来た元気のいい若者が入ってくるなり「サバーハルヒール!」と皆に握手を交わし始め、見慣れない東洋人の私にもなんの躊躇もせず手を差し伸べてくれた。フレンドリーなその仕草がいかにもかっこいい。 
いよいよ私の番。「で、どうする?」「ん〜と、これ位に刈って」適当に頼むとバリカンとハサミで器用に刈り込み始める様子から、やはり腕は良いようだ。 

痛たたたっ、こんな髭剃りは初めてだ。髭剃りまで頼むんじゃなかった。濃い普通のヒゲは刃物で剃るのだが、産毛の処理が違う。細い凧糸のようなものを取り出したと思うと、あやとりをするように器用に手に絡めてゴリゴリやる。糸と糸の間に挟まった毛が引っ張られて抜けるのだ。だから・・痛い! 
「はい、終わったよ」髭剃り(髭抜き)の痛さで気に留める余裕がなかったのがいけなかった。終わってみるとかなり短くなっていた。こんなに短く刈ったのは学生時代にクラブ活動で短くして以来だ。もうほとんどスポーツ刈りだ。 
散髪代5Dを払い店を出ると、短く刈り上げられた後頭部を静かに冬の風が吹き抜けていった。この時、数時間後に起こる悪夢を私は予想できなかった・・。 

 いざサハラへ               ラクダはどうかな
約束の時間よりも30分も前に待ち合わせのツーリズムに行ったのだが、もうタクシーが待っていた。時間前に来るとは思いもしなかった。あわてて乗り込むと、ツアー客が私一人だけのサファリツアーの始まりだ。

街を少し離れるだけで景色は一変した。砂と石だらけの荒涼とした大地が広がり、行き来するのは車の他にラクダまでもが道路を渡っている。途中、ベドウィンらしき住居で一人ピックアップし、更に車は進む。ちょうど舗装道路が途切れたところに別のベドウィンの住居があり、そこでガイドを付けてもらった。どうやらさっきの男は人足頭のような存在らしい。
ラクダに荷造り
ガイドと彼の家族が総出で、これからのツアーの準備に取り掛かかり始めた。 
ラクダに飲み水や食料、毛布他たくさん詰め込み、全てラクダに乗せ、それらを紐でしっかりと結びつける様子はさすがに手慣れた様子だ。。 
それにしても、電話などの通信手段があろうはずもないこの場所で、どうやって今日のサファリツアーを連絡したんだろう?やっぱりアポなしの企画なんだろうか。 

これからサハラに向かうというのに、ラクダはちょっとお馬鹿さんだ。人の言うことを聞かずに勝手に動くし暴れ始めた。
そんな時にはちゃんとしつけがあるらしい。ラクダに向かって、痰を吐くように「カァーッ、カァーッ」とやると、途端に大人しくなってしまった。たったこれだけで、さっきまでのお馬鹿さんなラクダがおとなしく従順なラクダに変身してしまった。ここに中国人の団体がやってきたら、ラクダはすっかり大人しくなり過ぎてとても観光にはならないだろう。 
準備が整うと出発だ。ベドウィンの家族の見送りを受けガイドと二人っきり、2頭のラクダを伴いサハラに吸い込まれていった。   

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