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悲運のヒーロー・義経は平泉で自殺していなかった!?

義経の父、義朝は平治の乱で平氏に敗れ敗死し、幼い頃は母、常盤御前と共に過ごしていたが、7才の時に鞍馬山に送られ仏門に入った。そこでは仏門の修行のかたわら父の仇を討つため武道に励んだ、その後奥州平泉へ逃げ、藤原秀衡の庇護を受け22才まで過ごした。兄頼朝の挙兵に少数の家来と共に参陣、木曽義仲を討ち、更に平氏一族を一谷・屋島・壇ノ浦に破って父の仇を果たした。

しかし、その後兄頼朝と不和になり、追放されひいては追討を受け諸国を流浪、再び平泉・秀衡の元に身を寄せる。まもなく庇護者秀衡が死に、その子泰衡に急襲され文治5年(1189)4月【義経31才】、衣川の高館で妻子と共に自殺する。

しかし、義経は本当に自殺したのでしょうか?
本当は平泉で自殺したのは義経の影武者で、義経はその一年前に弁慶を伴い北の旅に出た、という言い伝えや、それを立証する形跡が久慈地域のたくさんのところに残っています。

その伝説は平泉・江刺・遠野・釜石・大槌・宮古・田老・田野畑と点在し、義経が通ったかもしれない道になり、更に北へと向かった可能性があります。
ここでは、その数々の形跡・伝承を紹介し、悲運のヒーロー・義経が辿った新たなロマンの可能性をご紹介します。

久慈地方に残る義経北行の言い伝え、形跡
普代不行道、鵜鳥神社
久慈諏訪神社
久慈源道
久慈侍浜
野田中野家