久慈地方に残る義経北行の言い伝え、形跡
普代不行道、鵜鳥神社
〜普代不行道、鵜鳥神社:進退極まる義経、金色の鵜鳥を見る。〜

宮古の黒森(九朗森)山にて三年を過ごした後、再び北へと向かった義経一行は長旅で食糧不足に悩みまた、山道に迷っていたときに向うからやってくる牛飼いの少年に、弁慶が少年にこの地の名を聞くと、少年は持っていた鞭で土に“不行道”と書いた。この先に道はないという意味だ。義経は「わが進退もこれにて極まれり」と落涙したという。翌日、土地の老人の案内で一行は鵜鳥(卯子酉)山に登り、そこで一行は金色の毛をした身の丈5尺を超える美しい鵜鳥が羽ばたくのを見た。感激した義経はこの山で7日7夜の行をつとめた。満願の夜に玉衣姫命・鵜茅葺不合尊・海神豊玉姫命を夢に見たので3神を祀った神社を建てさせた。これが鵜鳥神社の縁起である。
*源義経:源義朝の九番目の男子「みなもとく源九ろうよしつね朗義経」、幼名「牛若丸」

久慈諏訪神社
〜久慈諏訪神社:義経、畠山の友情が今も残る。〜

久慈に入った義経一行は諏訪ノ森で陣を敷いて夕餉の真っ最中だった畠山重忠の一行と出会う。この畠山重忠は義経と共に平氏を倒した仲であり、その後頼朝の命を受けて義経追討をしていた。義経一行が吉田城から北へ逃げるのを見て、諏訪ノ森から落ちゆく義経に同情していた畠山は義経に当らないように念じて矢を射た。その矢は松の木に当り義経一行は北に落ち延びた。畠山はその矢を御神体として納めた社を建て諏訪神社と崇めたという。その時の矢は現在も御神体として祀られている。

久慈源道
久慈市吉田には「源道」という地名がありここにはかつて「昔、源氏のここを逃げ来て、左峠の方に行かれた」という口碑が残されていた。

久慈侍浜
源道を進む浜辺に出る。ここの地名が「侍浜」という。ここには弁慶の足跡が伸されている。

野田中野家
この家の祖先は藤原泰衡の弟・忠衡だという。歴史では忠衡は泰衡に殺されたことになっているが、義経に従って北へ逃れ、この地に根をおろしたのだという。頼朝の追及を逃れるべく始めは吉田姓を名乗っていたが、藤森、藤原と変えやがて中野姓になった。中野家には現在まで残されている「先祖の由書」にて確認する事が出来る。