今の崎山貝塚の様子


  崎山貝塚の全体を図であらわすとこのようになる。山すその小高い台地にむらがあったんだ。村の北と南には沢が流れてたんぼになっていた。今では西側は工場や国道ができ、村のあとはこわされてしまった。
 現在の周辺の地図。><MAP name=
 1988年ごろの崎山貝塚の様子。北東側から見たところだよ。村の周囲は、たな田が広がっているね。たんぼの間にはさまれた丘がムラだったんだ。(宮古市埋蔵文化財調査報告書15 崎山遺跡群U 昭和62年度発掘調査概報より)
崎山貝塚、南西側から見た遺跡の全体写真
下のパノラマ写真は、南西側から見た遺跡の全体だ。丸太で二重に囲んであるところが輪の形の溝(みぞ)があったところだ。内側の輪の所がちょっと高くなった中央広場だった。


   中央広場に大きな石が立っている。立石と呼ばれている。なんのために立てられたのかみんなはどう考える?
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    遠くに見えているのは、復元された縄文住居だ。
 ぼくの家もこんな様子だった。ここに家族5人が暮らしていたんだ。ムラに帰りたいな。
東側からムラを見たところ。こんもりとした林になったところがムラだよ。2002年の1月の写真だ。左側の草地がムラの南側の低湿地。ぼくが暮らしていた頃はムラのまわりはもっと谷が深かったんだ。土で埋まってその後田んぼになっていたんだね。
谷間の田のあと 低湿地の様子だよ。最近までここは田んぼになっていた。小川があるんだけど、ちょっと見えないね。
ぼくたちはこの小川でドングリやトチのあく抜きなどしたんだ。今の学者さんたちが良く調査してくれると、きっとあのころの物が出てくるはずだよ。
ムラの南側の低湿地から流れてきた小川だよ。この小川に沿ってどんどん下っていくと約1,500mほどで海に出るんだ。
ここがその海岸だ。「宿(やど)漁港」だよ。今でも美しい海だね。ぼくたちもここでたくさんの貝などの食料をとったし、ここから舟で漁にも出たんだ。なつかしいなあ。