特集 密かに進む「移転」誘導・・・檜山台集落

  ダム計画の流れで
いま消されようとしている集落がある
東成瀬村椿川字檜山台。
秀吉・家康の時代から400年の星霜
人と自然の深い記憶が
開発と破壊の波に潰えようとしている

 檜山台地区
ダム湖底に沈む場所ではない
堤体予定地点より1km以上離れている地点
ダム工事、あるいはダム関連工事によって予想される被害や影響を避けるため、と誘導される「集落ごと移転」。
行政側は「住民への思いやりの提案」と強調するのだが・・・。

 「思いやり」の中身?
工事車両で騒がしくなるだろう
自然環境も今より悪くなるだろうから・・・

 しかし、各戸個別に口頭でのみ耳打ちされた移転補償額・・・
移転先の土地は用意されていない・・・
その金、自給を主としてきた住民にはいかにも大きな金額に今は見えるかもしれないが、見知らぬ土地での生活を保障するものなのか・・・

 それに守られるはずの環境アセスの報告は無視される?
知事の要請も「紙切れ」に過ぎないってことか?
大柳や五里台、椿台、岩井川集落などは関係ないのか?

円森山より檜山台集落を望む(2002年2月撮影)

成瀬ダム工事図と檜山台地区 5万分の1の地図はこちら

行政側が「移転」を薦めている心配の環境悪化とは・・・@原石山の発破作業などの騒音
A地区の東側に予定されている付替道路(R342)の工事による騒音、粉塵、水質汚濁を指すのか?

目次

(1) 檜山台集落の「移転」話の経過(↓)
(2) 東成瀬村議会での富田議員の一般質問から
(3) 檜山台の歴史と文化
(4) 檜山台の明日を作る私たちの逆提案


 発端

■平成11年秋(旧建設省現場事務所)
東成瀬村担当者・・・ダム関連工事からの影響を避けるために(檜山台集落住民の)移転を提案
「ダム関連工事が始まれば集落周辺の環境悪化が予想される。そのときになって苦情を言われても困るし、対応できない。今のうちだ。」
住民たち「今ない騒音などを想定して、移転の判断などできないではないか」
住民A「耐えられないとなれば、移転の補償が出るということか」

 
その後の集落会議で

■住民Bから要望
(移転の判断のたたき台として自分の所・・・住宅付き宅地・・・を評価してほしい)

■それに対する評価金額が集落住民に口頭で提示される
住民たちの反応(・・・予想を越える高い金額の提示に驚く・・・)

■平成14年1月31日(国土交通省檜山台事務所・・・以下同)
村担当者
「一軒でも(移転に応じないで)残ると、除雪など(村の行政に)迷惑をかけることになる・・・(だから)集落全体の意志として移転してほしい」
「一軒でも残ることになれば、公園事業という性格と矛盾することになる」
「将来的には自然な形で雑木を植えるなどして周囲とマッチした雑木林としたい」

■同2月28日
村担当者が各戸別に別室に呼んで口頭でそれぞれの評価金額を提示
「(移転するのかどうかの)答えは集落として0か100にしてくれ」

■同3月16日
集落住民「集落は国道342号線に沿ってあり、そこを工事車輌が往き来することは騒音、粉塵などの面で問題だ」
担当者「付替道路の工事に関して現在の国道とは別に工事専用道路を造ることは考えていない」

「(先の移転)評価金額の査定の詳細を教えてほしい」などの意見が出された。

■同3月25日
担当者「これはあくまでも交渉ではなく相談である」
「それぞれ下りるのか(移転するのか)下りないのかはっきりしてほしい」

 そもそも・・・

●檜山台地区はダム堤体予定地「直下」ではない・・・ダムサイトから1km以上も離れている。
「ダム工事で騒音がひどくなると思われるので移転が必要」というような場所でもない。

●付替道路が檜山台地区の東側山腹を通過することが予想されるが、ダム関連工事が住民の生活に支障がないように行われるべきことは環境アセスの報告からのも明らか

●現在、ダム工事用道路の整備として
岩井川地区のバイパス工事が始まろうとしているが、住宅地に至近距離での工事なのに移転や立ち退きなどの話は出ていない。檜山台地区だけが移転が必要とされる特殊性と緊急性があるのか?

 「移転交渉」の問題点

 1.村の議員たちも知らないなかで進んでいた。村役場と国土交通省の係だけで、この
   相談は「まとめ」の段階に来ている。(秘密主義)
 2.支払われる代金は、文書にせず口頭で示されている。(責任不明)
 3.支払われる代金は、一人一人に別室で説明する。(秘密主義)
 4.どういう基準でその代金になるのか、説明しない。
集落全体でいくらなのかも分からない。(秘密あいまい主義)

 
総額数億円(予想) 使い方への疑問

 1.移転補償での口約束は数億円と予想される。
このお金は村の再生に本当に役立つだろうか。移転する人々の明日の幸せを本当に
支えてくれるだろうか。
 2.すべて貴重な税金からである。巨額の借金財政の中で、国民がみな納得のいく使
い方だろうか。

 
村への質問

 1.となり村、山内村の大松川ダム(県営)での集落移転の条件と比較はあったのか。
   そこで起きた教訓は全部生かされているのか。
 2.この計画実行で、村は集落住民を「棄民」(人捨て)にしない決意をもっているのだろうか。
   「むらおこし」の道筋を村民に説明できるのだろうか。

文責 HP管理者 奥州光吉

成瀬ダムと檜山台住民の移転問題について(東成瀬村議会:冨田義行議員の一般質問から)

ダム工事と移転問題の関連について経緯を聞く

 次の質問は成瀬ダム建設と檜山台住民の移転に関することです。
これまで議会が説明をうけてきた成瀬ダム建設計画の中には、ダムにともなう檜山台住民の移転ということは計画にないことになっていました。
ところが、昨年あたりから檜山台地区の住民にたいする会議が幾たびか行われ、移転する場合に必要な 補償のための資産価格の評価まですでにすすんでいるということを聞きました。
 われわれにとっては全く初耳のこの件について、どういう経過からこうした移転のことが具体的にすすめられるようになったのか、移転とダム工事との関連はどうなっているのかを聞きたいと思います。

村長 国が平成12年12月から村内5会場で説明会を開催した。そのなかで、ダム直下流である檜山台地区では、「将来の不安などを考え移転できないか」という意見が一部から出されたため話し合いを持ってきました。
 村としては、地元の意向によりダム事業を取り込んで計画していく必要があるということで、「できれば移転したい、移転すればどれくらい(補償費が)出るだろうか」という話が檜山台地区住民から出たため話し合いを持ってきたものです。 決してこちらから押し付けをして「移転してほしい」とかいうことではありません。

住み続けたい住民には「ぜひ残ってくれ」というのが村のとるべき姿勢

 この地区の住民のなかにはこうしてすすめられている移転に同意しない方もおられるようです。そこに住み続けたいという住民には当然ながら移転の強制はできないものです。
 成瀬ダムの環境アセスでは、ダム工事にともなって発生する粉塵、水質汚濁、騒音等から地区住民の生活環境の保全をはかることという県知事の意見に対して「関係法令をそんしゅするとともに散水の励行等による粉塵の防止、低騒音型、低振動型の機械により騒音の低減に努める、さらに騒音、振動を測定監視し環境保全対策に十分配慮する」と述べています。

ダム工事にともなう諸々の問題から住民の生活をまもるのが村のつとめではないか

 ダム建設を推進する側に都合が良くできている環境アセスでさえこう述べています。ダム工事にともなう諸問題で住民の生活を擁護しなければならないのが村のつとめであり、生活道路の除雪のために一戸でも道をつくるということで道路改良計画をすすめているのが村の現状です。
 この地区の集落移転が村政の課題として具体的にとりあげられているのなら話はまた別ですが、そういう計画はないし、だいたい移転によって住民が村内にとどまるという保障もなく、このまま移転をすすめたら「村の人口減を村が督励する」という結果にもなりかねません。
 移転をのぞむ住民は本人の意志ですからそれをとめることはできませんが、あそこに住み続けたいという住民には「是非残ってくれ」というのが村のとるべき姿勢ではないかと思います。

村長 今回の移転話は地元からの要望にもとづくもので、村としては当然地元の意向を尊重して行政サービスにつとめていくことに変わりはありません。この点ははっきりとのべておきます。
 あくまでも住民の方々との話し合いの中でいい方向づけをしていくのが基本的な考えです。

 移転をすすめなければならないほどダム工事は住民生活に影響を与えると今から予測されることがあるのでしょうか。これらの点も聞いておきたいと思います。

村長 ダム工事による影響により移転話が出たということではないことを承知願いたいと思います。
 あくまでもダム直下に集落があって、そういった場合に「どのような影響が自分たちにあるか」という考えを住民の方々が持った場合に、当然何らかの対策を考える、ということで出てきた話です。
 アセスの見解を超えるような問題があるということではないし、知事の意見書の中に出しているように工事は「低騒音」「低振動型」の機械を使い、散水の励行などもきちっとやるとなっており、これをこえるもの(環境問題)があった場合には環境を緩和していくということになっています。
 ただ、住民生活への影響ということでは、小鳥のさえずりや風の音しか聞こえない静寂な状態が、工事中も保てるかとなると、環境アセスにはないわけですが、そういう点を住民が配慮した場合「自分たちはどうなのかな」ということを想定しての(移転の)考え方ではないかと理解しています。

移転補償は全戸移転を前提にした事業なのか

 移転の課題のなかには財政的なこともつきあとってきます。これは、全戸移転を対象とした事業計画なのか、移転補償も全戸移転を前提としたものなのか、移転は国のどういう事業の関係ですすめられようとしているのか聞きます。

村長 これは、基本的には住民の総意がそういう方向で移転したいという方向が一番もとめられてくるだろうと思います。
 ただ、湯沢工事事務所と、一戸、二戸残った場合どうなるか、ということまではまだ詰めていないし、工事事務所長ともそういう話はしていないので、今日の意向などをふまえながら話をしていく必要があると思います。
 事業をするとなれば、総意ということになろうかと私は考えています。

水源地域再建計画の大筋の説明を

 ダム関連の水源地域再建計画については、現段階ではどのようなものができあがっているのか、後に資料でもいただきたいし、この場でも大筋の説明をうけたいと思います。

村長 この再建計画は国土交通省の補助事業であり、総合的な地域振興に対するマスタープランを作成する事業です。
 十三年度予算の事業だがまだ進行中であり、三月末までには説明・報告をします。

桧山台・その歴史と文化(前編)――菅江真澄の文献より

  東成瀬村をカギ型に流れる成瀬川。
 この川に沿って点在する集落の中から,“桃源郷”に値する部落をひとつだけ挙げるとすれば――。
 村役場や小学校のある田子内地区は,「村の中心部」とはいえない。たんに里に近いだけ。須川高原を目指して国道を進めば,この村はおおむね数キロごとに,まとまった集落が現れ,訪れる人を出迎える。
 「この奥にはもう人家はないだろう」――そう思っても集落はまた現れる。山を越え,谷を渡り,西栗駒の緑と,成瀬川の水のきらめきがいっそうに目にしみる空間――そこが,この村の桃源郷・桧山台。

 桧山台は1637年(寛永14)に拓かれたといわれる。上祖は高橋丹波。その子孫・高橋八兵衛は,江戸時代の紀行家・菅江真澄を,藩からの地誌編纂の使者に迎えている。
 霧深き山分衣かたきしてぬる夜は袖にあり明の月
 1814年(文化11)旧暦8月,栗駒山を訪れる日の朝に,真澄が詠んだ歌である。足倉山・赤滝・北俣沢・朴ノ木台(仁郷)など,いまもなじみ深い地名が,真澄の著した『駒形日記』に残っている。このころの桧山台の戸数は定かではないが,真澄の投宿した高橋八兵衛は丹波の五代目だ。丹波は谷地部落を同時期に開いた実力者である。天江・大柳・草ノ台なども丹波の力によるものか。藩政時代の桧山台には,相当数の家々が存在していたのだろう。
 桧山台の下流には,実はもうひとつ部落があった。
 切留村。2戸の世帯があったと,真澄の『雪の出羽路雄勝郡』に記されてある。切留という地名はいまはないが,「椿台の支村菅ノ台といふにいと近し」という記述から推察するに,いまの土寄(つちよろ)のあたりと思われる。草ノ台と桧山台の間には,1960年ころまで人家はたしかに存在していた。
 時は流れて1940年(昭和15),仁郷に営林署の事業所集落が興され,小中学校の分校が開設された。終戦をはさみ,近代化の波はこの奥地にも及んだ。桧山台に新しい風が吹きはじめた。
 まもなく営林署は仁郷を下り,分校は桧山台に移転した。桧山台にはおよそ50人もの子どもたちがいたのだ。歴史上は,桧山台がもっとも輝いていた時代だった。
 過疎化はしかし,すでにこのころから進行していた。子どもの数は減り,分校はなくなった。1950年代には20軒を超えた世帯も,くしの歯が抜けるように下りていった。現在残っているのはわずか7軒。
 桧山台は,東成瀬村最奥の部落。仁郷に営林署集落のあった22年間を別として,このちいさな村落は,1637年からこんにちにいたるまで,ずっと“ユートピア”でありつづけた。
 村の最奥であり,栗駒の玄関口であり,成瀬川のみなもとであり――。私たちの生命・文化・民俗史の起源――365年もの間,ひっそりと,しかし脈々とこの部落は命をつないできた。
 その息の根が,いま止められようとしている。
 有史以来,独特の文化を編み,歴史を築き上げてきた,いまの世の中におけるエアポケットのような山里が,東成瀬村にとってなによりも大切な心のよりどころが,いとも無造作に抹殺されようとしている。郷土人としての誇りをかなぐり捨て,薄汚い権力にすがって保身を図ろうとする一部の人の思惑によって……。

 かつてこの地で中学校教諭をしていた十文字町のSさんは,桧山台の人たちの思い出を,40年の時を隔てたいまも鮮明に思い出す。
 「……子どもたちはみな純情で素直で,よく話を聞いて真面目に授業を受けていました。きかん坊なんていなかった。寒さの中ではあったが,薪は豊富にあったからストーブをがんがん燃やして汗をかきながら授業をしたものです。
 ああいう山奥では,教材などはろくにそろわなかっただけに,音楽の授業にアコーディオンを持ち出して音を鳴らすと,同じ教室で別の授業を受けている小学校の児童がチラチラ振り向く。『あれ,なんだべ…』『なんか珍しい楽器だぞ』なんて声が聞こえてきて,歌を歌えば小学校の子どもらもかたって,もう収拾がつかないありさまでした。
 放課後になると,部落のアバがどぶろくを持って学校に来るんです。『先生,ギター弾いでなえが歌ってけろ!』と。授業中にだって,下宿先のオドが,仕留めたヤマドリを振り回して『ほれ先生,捕ったぞお!』と見せに来る。
 教え子の家庭で夫婦げんかが始まると,手の付けられなくなった子どもが私の下宿先に走ってきて『先生っ! 来てけれっ!』とせっつく。なにごとかと駆けつけると,取っ組み合いのけんかをしているんです。それで仲裁させられたりして(笑)。
 また,なんらかの理由で学校に行けず、字の読み書きの不得手な大人もおって,あるとき若い娘さんが私のところに来て手紙を見せてくれた。増田の若者からもらったものだという。『なにを書いているのか教えて』というから読んでみたら,どうもラブレターらしい。里の若者とのラブレターの代読や代筆なども頼まれたものでした。
 ――それから三十年くらい過ぎて,私はまた東成瀬で教壇に立ちました。桧山台で教えた子どもが成長し,みんなお父さん・お母さんになっていた。桧山台時代の教え子の子に,私は勉強を教えたのです。そう,親子二代で……」
 
 1968年(昭和43)12月発行の村の広報誌『東成瀬』の表紙。
 「喜びの桧山台小」と題して,小中学校の分校生徒・児童42人が,湯沢市で行われた郡市音楽発表会で入賞したときの話題が紹介されている。
 『……村内でも一番恵まれない地域に生活しているにもかかわらず、このように立派に成長している桧山台分校の生徒に,心から拍手を送りましょう。……』
 「桧山台小の新しいステージで合奏する桧山台小の児童生徒」と記された写真。ハーモニカやピアニカを携えた子どもたちは,みんな真剣な表情で,指揮者のタクトを見つめている。
 この子どもたちに送った拍手は,みんなが大人になったいまも,たしかに刻みつけられているはずなのに――。

文責 樋渡

桧山台・その歴史と文化(後編)−−伊藤緑郎著『村の春秋』より

 優子ちゃん――
 父さんは,今日――四月八日に、成瀬村大柳小学校に赴任しました。
 奥羽本線十文字駅から,東の山へ三十二キロも入りこんだ,大柳高原は,野も山も,村落も,満目厚い厚い雪に覆われていました。ここは,もう奥羽山脈の脊梁の真ただ中です。
 雄物川の最上流である成瀬川は,秋田,宮城,岩手の三つの県の三角点に聳える一六二八メートルの栗駒山――ここでは須川岳といっていますが――に源を発しています。この成瀬川に添う細長い山峡の里が成瀬村なのです。この山峡に点々と部落が続き,五つの学校があります。その中,一番奥の学校が、父さんの赴任した大柳小学校なのです。

 1968年4月に,東成瀬村立大柳小学校に校長として赴任した伊藤緑郎さんは,小説家・記録作家という顔を持ち,大著『村の春秋』を書き遺している。大柳小に2年間勤務した伊藤さんは,大柳部落から桧山台・仁郷に生きる人々の素顔・気質,それに体臭までも,第6集『栗駒山風物詩』につぶさにまとめた。
 桧山台は前章で書いたとおり,長い歴史を誇る古い集落だが,その地に生きる人たちのナマの姿は,郷土史などを調べてもほとんど見えてこない。伊藤氏の『村の春秋』にはしかし,教員として定住した伊藤さん自身の透徹した目で,これら各部落の人たちの生活ぶりがこと細やかに描かれている。
 1950年代における桧山台の人たち。戦後,高度経済成長がはじまる以前,里からはるか遠く離れた深山で繰り広げられていた人々の営みは,いまの時代に生きるわれわれがうかがい知ることがきわめて困難だが,決して忘れてはならない先人たちの努力の結晶として,強く心に刻まなくてはならない。
 後編は,この『村の春秋』から,桧山台の人たちの素顔にせまってみよう。里で生活していた伊藤さんは,校長としての初めての赴任地に,東成瀬村最奥の大柳小を選ぶ。冒頭の一文は,その赴任時の模様であり,この日を皮切りに,伊藤さんは奥成瀬のすべてを全身で受け止める決意を固める。教育者である伊藤さんは,大柳を中心とする奥成瀬の自然・風土・文化を記録するとともに,人々の暮らしの中に自らを融合させ,そのあらゆる動きを見つめてきた。その中で,桧山台部落に関する一節を引いてみる。


……山の中腹の道を二キロほど歩いていくと,やっと檜山台部落であった。部落の入り口の道標に太い丸太の杭が立っていて,それに『県立公園栗駒山入口』と刻まれた横板が打ち付けてあった。
 檜山台は,左の山裾から,右の深い川の岸まで緩い斜面が広がっている台地であった。その台地を通る一本の街道の両側に,黒ずんだみすぼらしい家が二十軒程続いていた。雪囲いの厚い萱で包まれた杉皮屋根や,萱葺き屋根の家のまわりには,固い雪が軒に届く程に残っていた。
 台地の雪の間から,大豆の切り株が並んでいる黒土の畑や,低い田ん圃が見える。畦越しに溢れて来る水が,小砂利を積み,白っぽい立ち枯れの稲が残っていた。
 人っ子一人見えず,気の滅入りそうな淋しい眺めである。

 五月半ばになって雪解けが落ち着いたころ,小川教頭の案内で仁郷の分校を目指す途中に伊藤さんが初めて訪れた,桧山台の情景である。「気の滅入りそうな淋しい眺め」――これが伊藤さんの,桧山台部落の最初の印象なのであった。
 このときは桧山台を,伊藤さんはただ通り過ぎただけだが,桧山台の手前,土寄とおぼしき一角に伊藤さんがたどり着いたときの記述を紹介したい。この前年に起きた山崩れで生じた天然のダムのそばを通り過ぎて,伊藤さんは意外な光景を目にする。


 ダムの出口を過ぎて,杉林のすぐ道端に,杉皮屋根の小さな家がポツンと建っていた。
 「先生,ここが西小沢と言いますが,この家の六年生のノリオと,四年生のタテオと,二年生のヒロコが大柳の学校さはいってるす」
 「え,ここから大柳へ」
 私は途中の,遠くそしてひどい道,そして崩れた崖道を思って息を飲んだ。


 前章で紹介した「切留村」部落のなごりの世帯と思われる。『村の春秋』に切留の名はないが,「西小沢」という名称も,現在は使われていない。ただ,草ノ台と桧山台の間にもうひとつ部落が存在していたのは,このことからも明らかといえよう。

 

 『村の春秋』の中で桧山台の人に焦点が当てられるのは,冬季分校開設の章からだ。

 三年前の冬。仁郷分校から家に帰る檜山台の低学年の子五人が,途中で雪崩に会った。
 檜山台の上の野原を通りきると,道が急に山裾を通って川岸に行く。子供達がそこを歩いてた時,上層雪崩(わし)に会ったのである。雪崩が軽かったことと,近くに薪材出しをしていた男達がいたことが幸して,皆掘り出されて助かったが,全く危ういところであった。
 この遭難未遂事件がきっかけになって,檜山台衆は是非自分達の部落に冬季分校を欲しいと言い出したのであった。しかし役場に働きかけたところで,おいそれと簡単に実現しそうになかったので,貧しい檜山台衆は自力で,菅の台の巳之助の小屋を買い,運び,そして建てたのであった。
 …………
 このような冬季分校でも,これで子供達が雪崩に会う心配はないし,それに自分達の力で建てた分校だということで,檜山台衆は大自慢の部落財産にしていたのであった。


 小学校の統合が趨勢となっている昨今,かつての桧山台の人たちの気質と団結力,子どもたちへの愛情,そして郷土愛を示すエピソードである。子どもがひとりでも地域にいれば,その地域内にて子どもが学べる場が与えられてしかるべきなのに,村当局はこうした地域の文化の発祥を,地域から根こそぎ奪い取る愚挙に及んでいる。
 子どもは,親の手を離れて自立するまで,地域に学び,地域に遊び,地域で親の姿を目の当たりにしながら,生きていく術を知る。郷土とは『村』という自治・単体以前に,まさに自らが生まれ育った地域・集落である。たとえひとりでも,子どもは未来の郷土を背負っていく大切な宝物。かつて子どもたちの歓声があふれていた桧山台にて,大人たちは部落の未来,子どもたちの未来のために,なにが大切であるかを明白に悟っていた。『役場に働きかけたところで,おいそれと簡単に実現しそうになかった』というほどに,当時でさえ東成瀬村当局の態度は冷淡なものであった。にもかかわらず桧山台のひとたちは,素っ気ない村の対応にめげることなく,本来あるべき姿を子どもたちに示した。

 十一月十日,冬季分校開校式。
 …………
 教室に父兄も集まって簡単な開校式のあと一時間の授業を見せてもらう。教室の両側に黒板をぶら下げ,中に小学校の子と中学校の子が背中合わせで授業をするという,全く珍妙なもの。
 十一月十日,冬季分校開校式。しかし父兄たちも大真面目で,満足気にこれを見ている。

 桧山台のおおきな財産である冬季分校の開校時の模様である。これがまもなく通年分校となり,1979年に廃校となる。桧山台分校の卒業生たちは,いまはボロボロとなって朽ちはてゆく分校校舎に,心の拠りどころである桧山台の夢のあとを見て,悲哀にくれるばかりなのである。東成瀬村当局は桧山台の人たちに,悲哀の代償を「最悪の手段」でもたらそうとしている。
 伊藤さんは,2年の任期を終えて1960年の三月に大柳小を去る。その後に桧山台の知人の訃報を知り,大柳―桧山台を再訪する機会をみる。

 ……ここから分校のある桧山台までは,十キロに近い道である。その道は断崖に沿ったり,或は静かな雑木林や杉林の間を縫ったり,谷の枝川に入り込んで深く曲がりくねったり,時には,岬のように山の端の辺剥りを走ったりしていた。
 …………
 分校の入学式,始業式,運動会,学芸会,修卒業式おまけに冬季分校の閉校式,先生方の新任式,離任式,歓迎会,送別会等々のいろんな分校の行事。それに先生方にまつわる公私のあれやこれやのことで,通い慣れた道である。吹雪の度に,大雪の度に,その道筋も変るのだった。
 落石,雪崩れと,随分恐ろしい目に会った道である。林も,崖っ縁も,橋も,萱野も,辺剥りも何だか人間らしい懐かしさを覚える。
 最後の辺剥りを廻りきった所に『栗駒県立公園入口』と書かれた横板が,太い柱に取り付けられて立っている。そして目の前に桧山台高原がカラッとひらけている。
 

 このあと,懐かしい桧山台の人たちと再会を果たしたものの,亡くなった知人の家族にはなかなか会えず,伊藤さんはここからさらに奥にある仁郷にまで足を伸ばす。その一節を引いてみよう。

 一本道を栗駒山のほうへ向かう桧山台を過ぎると,広い広い萱野である。急に山際を下って,成瀬川にかかる頑丈な木橋を渡る。又山際の道を上って,ちょうど桧山台から三キロ余りで仁郷の高原である。ここは,土地の者は,朴の木台とも呼んでいた。
 …………
 高原を横切る街道から,草原に外れて,車を置いた。草原は,無人のせいか一層侘びしく,清澄な冷たい空気が身にしみる。道端に『栗駒山頂十一キロ』と書かれた札が立っていた。
 見渡す限り,薄を主として丈なす草原で,色も褐色に老いていた。草原の向こうの山裾は開墾されて,村の組合で植えた牧草の緑が広がっていた。
 もと,住宅長屋が並んでいた間の道だけが,細く長く伸びていた。私はその小道を辿って,向こうの端まで歩いた。
 一面の荒々しく茂った草で,もとの建物の跡もさだかではなかった。ただ,道の突き当たり,倉庫の基盤であろうか,コンクリートの土台らしきものが崩れ,傾いていた。
 人々が諸方から,風に吹き寄せられた落葉のように,ここに集まり住んで,二十年近くも暮らし,又,落葉のように散り散りに去っていったのである。
 仁郷の部落は,茫々と,ただの草原になったと聞かされていたが,今,目のあたりに見て,心にじいんと迫るのであった。
 もう再び私はここを訪れることはあるまい。

 大柳小学校時代に世話になった亡き知人に供物を手向ける目的で,伊藤さんは桧山台を再訪した。しかし,本来なら満面の笑顔で伊藤さんを歓待するはずの故人の家族には,複雑な事情があった。断腸の思いで伊藤さんに涙を見せる遺族。伊藤さんは,そうした事情をもちろん知っていた。遺族の悲しみとやりきれなさを共有するために,伊藤さんは桧山台の知人宅の戸をたたいたのである。遺族は伊藤さんのこころ配りといたわりの情を受け止め,しかしやり場のないつらさに唇を噛みしめ,桧山台をあとにする伊藤さんを見送った。自宅へ招き入れることもできずに――。

 私が大柳にいた頃、分校訪問の度に忠次郎の家に寄って御馳走になり,或は泊まったりするのが例で,忠次郎の家でもそれが当たり前のことのように思っていた。
 いつかの分校の帰りに,寄らずに素通りしようとしたら,帰りを待ち受けていた阿母(アバ)が雨戸の縁から家の前に躍り出て
 「こおれ校長,どうした,寄ってけろ」
 と,部落中に響くような大声のしゃがれ声で叫ぶのであった。
 その日はどうしても学校に早く帰らねばならぬ用事があったので,阿母に見つからぬように通り過ぎようとしたら,雨戸をあけて見張りをしていた阿母に見つかってしまったのであった。
 冬季分校の開校式で,忠次郎の家で祝宴があった時,泊まらずにそっと戻ったら,阿母に頼まれた屈強の若者が追ってきて,三キロ程向こうから有無も言わさず連れ戻されたことがあった、
 ケレンも魂胆もなく,本当に我々をもてなしてくれる阿母でありこの家の人達であった。日本中でこの家の人達ほど親切な者はいないだろうと,私は本気で思った程であった。

 桧山台の人たちのやさしさ・つつしみ深さとともに,その影の部分も知りつくした伊藤さんは,この日の情景と心の痛みを赤裸々に描写している。桧山台とは,こういう地なのである。東成瀬の明と暗,陰と陽すべてが濃縮され,それでいてかけがえのない魂の源が,いまも息づいている村一番の財産なのだ。なぜ東成瀬村は,この桃源郷を葬り去ろうとしているのか――。
   桧山台を滅ぼしてはならない。桧山台の文化の灯火を消してはならない。たとえ部落の将来が見えなくても,桧山台はこれまでも,これからも,奥成瀬に存在していなくてはならない。部落の移転は,桧山台にかかる暗雲を取り払う切り札には,断じてなり得ない。
 桧山台の部落の町なみと人は,赤滝同様,ダム工事によっていささかも損なわれてはならない東成瀬の象徴そのものである。東成瀬村は,いま一度立ち止まって,本当の澄んだいつわりのないまなざしで,村の将来を見つめる時間をつくらなくてはならない。

(完)


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