日高火防祭の由来

旧藩時代、留守家17代の水沢城主宗景公が少年時代伊達公の名代として江戸にあったとき、江戸の華といわれる火事の多いのに驚かれた。    
なかでも明暦3年(1657)の火事は、江戸の大半を焦土と化した大火災であり、俗に振袖火事といわれ、この時の死亡者は10余万人を数えたといわれている。    
これらの悲惨な災害を目撃するにつけ、火災の恐ろしさを肝に銘じ、任を終えて帰水するや火防の対策に万全の策を講じた。人智の不足不慮の羅災を神仏の加護によって未然に防止しようとし、日高妙見社の日は「火」に瑞山(みずやま)神社の瑞は「水」に通ずるとして両社に祈願し始められたのがこの祭であるといわれている。    
また、19代村景公の時代に享保20年水沢の大火の後、佐々木佐五平が江戸に派遣されて江戸火消しを習い、民間消防隊を創設したといわれている

 

町方火消しの祭典

祭りの日まで

町々では、その年の屋台を運行する年番(ねんばん)が決められ、厳粛に前年の年番から新しい年番へと引継ぎが行われる。    
祭りがあと半月に迫ると各町では一斉に「はやし」の練習が始まる。    
町のそちこちから三味線・太鼓の音が響き始めると舞台裏では屋台の掃除、点検、飾りの用意と多忙な日が続く。そして祭り前日、磨き上げられた1本1本の柱が組み立てられ、「はやし」も最後の総仕上げがなされる。

祭りの日

祭りは古くからのしきたりや順序があり、古式にのっとって行われる。    
午前8時30分、各町の年番長が日高神社に参拝、祈願して御守札を受け(これを年番祭といっている)、ただちに各屋台に帰り行動を起こす。    
「はやし屋台」は神社前まで入れないので「町印」と「打ちばやし」が、神社に正式参拝をして出発点の市役所前(城址大手門前)に集合する。(昔はここで城主の観覧に供した)    
午後1時30分、一斉に行動を起こし、「町印」を先頭に「打ちばやし」「はやし屋台」の順に次々と並び不断町、川口町、立町、柳町(ここで消防創設者と目されている佐々木佐五平の像に拝礼する)大町、横町、袋町へと、各町の年番長の指揮の下に整然と人波をぬって行進する。    
夕日が西に傾く午後5時30分ころ、終点中央通に到着、各屋台は1時間30分ほど休憩する。ここで町印と打ちばやしは各町に帰る。    
夕食をすませるころ、あたりは静かな夕闇に包まれ、ぼんぼりは一斉に点灯される。屋台は生き返ったように絢爛華麗さを加え、水沢駅前で「相打ち」の仁義礼をつくして駅通りを通り各町に帰っていく。    
この間約2時間が祭りのクライマックスとなる。300年の歴史を持つこの祭は、火防祭(ひぶせまつり)といわれ、毎年4月29日に行われる。